コンポジション

地味なブログです。お役立ち情報は皆無です。感じたこと、思ったこと、考えたことを、ぽつりぽつりと書いています。受け売りではなく、自分で考えたことを書くようにしています。嘘や誇張もできるだけないように、と思いながら書いています。写真も公開する予定です。

掌編小説 コリオリの力

 

 羊水に浸っていたのは、自分ではなかったのか、と思うことがある。

 その日、東の海上から張り出した1014ミリバールの移動性高気圧が日本列島全体を包み込み、朝鮮半島の北西部では低気圧が発達しつつあった。

 東高西低。「鯨の尾」と呼ばれる典型的な夏型の気圧配置だ。張り出した高気圧の等圧線は、たしかに鯨の尾びれに見えなくもない。14時、高崎と熊谷でその夏の最高気温が塗り替えられた。フェーン現象。うだるような暑さという慣用句があるが、実際は、フェーン現象が発生すると湿度は下がる。

    *  *

 その日の朝、測候所には、パレードの控え室のような緊張感が漂っていた。ここ数日の気圧配置から、今日、この夏の最高気温を更新することは、ほぼ確実だった。所員は、本庁や観測点との連絡、マスコミや一般市民からの問い合わせに振り回されるだろう。しかし、その忙しさを厭う者はほとんどいない。私もそのうちの一人だった。読点のように丘の中腹に張り付く小さな測候所にも、年に数度、感嘆符は書き込まれる。 

 倉庫の内線電話が鳴った。予備の「流速計」を整備していた私は、潤滑油で汚れた手をウエスでぬぐい、深呼吸をひとつする。受話器に手を伸ばす。ダイヤルのない黒電話は、反駁を許さない厳格な裁判官を連想させた。

「吉田さんに、ご家族からです」

 やはり、妻からだった。妻は小さくしゃくりあげるとひと言「ごめんなさい」と呟いた。死産だった。心臓を背後から、研ぎすまされたアイスピックでひと突きされた気がした。膝から下の感覚が消えた。私が地震計の記録用紙を取り替えている間に、セロファンのような命は、世界を1ミリも震わせることなく消え去ったのだ。私も妻も次に紡ぐべき言葉を持ちあわせてはいなかった。沈黙が去るとやがて静謐が支配した。沈黙にはなにかが充填されている。しかし、静謐にはそれがない。

 私は、自分が世界から切り離された気がした。友人からも思い出からも場所からも時からも。ありとあらゆるものから隔離されて、私は一個の薄幸で貧弱な、ユークリッド幾何学にならうなら、位置を持ち部分を持たない点Aとして<ここ>に存在している。

 電話を切ったあとも、私はしばらく作業を続けた。流速計のアルミニウムの尾翼をいつもよりていねいに磨く。こいつはいつの日か、紺碧の空の下で、旺盛な息吹きをまとった風をこの翼に受け止めるのだ。悠然と。果敢に。そして、あたりを睥睨(へいげい)し風がやってくる基点、つまりは世界の始まりを指し示す。その勇姿を、私は目を細め誇らしげに仰ぎ見るだろう。

 不意に涙が溢れ出す。嗚咽が漏れそうになった。奥歯をくいしばる。死産に関して私が涙を流したのは、この時が最初で、そして最後だった。

 所長に事情を告げると、私はサドルに跨った。測候所から市民病院までは、約20分。飛ばすと15分とかからない。自転車のペダルを踏みながら、私は「見出し」を考えていた。新聞は<測候所職員Y氏の第一子死産>。週刊誌なら<死産だった!! 本誌独占Y氏単独インタビュー>。もちろん、一介の観測員の死産など、マスコミネタになるわけがない。自分でもなぜそんなことを考えているのか奇妙だった。

 踏み切りを渡り路地に入る。街路樹の小枝が肩先をかすめる。私が切り離されたのなら、妻も孤独な点なのだ。座標上の点と点は、最短距離で結ばれなければならない。たとえ、ユークリッド幾何学がなんといおうとも。

 ペダルに体重をのせる。私と自転車の影は、力強いコントラストをアスファルトに転写し、並走する刻印になる。停車していた軽トラックから甲子園のサイレンが聞こえた。カーラジオから流れるサイレンは、はるか遠い昔に鳴らされたと錯覚するほどに弱々しく、瞬く間に蝉の声に押しつぶされていった。

    *  *

 あの日からどのくらいの時間が流れたのだろう。気象庁は気圧の単位をミリバールからヘクトパスカルに変更し、いくつかの測候所が閉鎖された。私は測候所の閉所とともに仕事を辞め、自分の人生にピリオドをひとつ付け加えた。

 退職後のあてなどなかった。プールの飛び込み板のようなものだ。ただ、きっかけがほしかっただけなのかもしれない。風をはらんで、しゅるしゅると世界の基点を指し示していたあの流速計とともに私も消える。流速計には<従者>がいて、はじめて流速計となりうる。

 コットンパンツのポケットから四つに折りたたんだメモ用紙を取り出し、バス停のベンチに腰を下ろした。メモを見ながら買い物袋の中身を確認する。高野豆腐、文鳥の餌、レンコン、合いびき250グラム、シロップ(イチゴ)、大葉、オソウメン。すべての品物の個数が「1」なのに、それぞれに一箱、一袋、一本と書かれている。妻らしいな、と思った。

 ふいに視界の片隅でなにかが動いた。アキアカネだった。

 アキアカネは、一般には赤トンボと呼ばれている。盛夏を山あいで過ごし、晩夏から初秋に里に降りてくる。私は時期が少し早いなと感じた。観測員は、動植物にも詳しいのが普通だ。自然に傅(かしず)くこと。それが観測員の習わしだったから。

 アキアカネは歩道のマンホールの上を、指揮者のタクトの軌跡を描いて飛んだ。マンホールには、午前中に降った通り雨の水がたまっていた。水面と呼ぶには狭すぎて、水深と呼ぶには浅すぎる。水たまりは、ガソリンが浮かんでいる。首を少し傾けると七色の皮膜が緩々と動いた。

 水溜りの上には、人にはわからない気流の層があるのかもしれない。その隙間を縫うように、アキアカネは小さな矢となって下降と上昇を繰り返す。やがてなにかを決心したかのように、地面すれすれまで降りてくると、尾を下にして卵管を水面に浸した。何度も何度も水面に尾を接触させるその姿は、敬虔な巡礼者の祈りのようだ。卵管が触れるたびに、水面には小さく緩慢な波紋が広がった。

 マンホールの水はやがて蒸発するだろう。そして卵は孵化しない。ただそれだけだ。<そういう>事実がぽつりとあるだけだ。そこには、善悪もなければ虚実もない、分別も階層も具象も抽象も。形而上も形而下も躊躇も憐憫も、そこに入り込む余地などない。そう、あるのは自然だけなのだ。それ以外は<あってはならない>のだ。

 気圧計のついた腕時計を見た。1014ミリバール。あの日と同じだ。風が通り抜ける。声に出して言う。「南東からの風、風力2ないしは3」。

 私は歩き出した。大腿四頭筋の力で。川へ向って。強い風が吹いてくる方へ。コリオリの力の源へ。路線バスが傍らを通り過ぎ、小さな陽炎を作って走り去った。

<了>

どこに住もうか

真球になりたかった。

どこを測定しても寸分たがわぬ精度で、傷ひとつないなめらかさで、銀色の光沢を放つ硬度で、転がり続けたかった。真球を意識しながら生きてきたわけではない。けれども、気づくといつも転がっていたように思う。

目についたものは、なりふりかまわず首を突っ込む。くぼ地にはまって、身動きとれなくなることが怖かった。静止することは停滞ではなく、後退を意味した。いつまでも、どこまでも、とにかく転がっていたかった。片時も休むことなく。

良く言えば、自由奔放。悪く言えば、すべてが中途半端である。

コピーライターに求められる能力、それがいまだによくわからない。文章力であったり、観察眼であったり、常識を疑う用心深さであったり、いろいろ言われてはいるけれど、正直、どれもピンとこない。ただひとつ言えるのは、「モヒカンには、モヒカンのコピーしか書けない」という例えだ。

そもそもコピーライターは、原稿用紙を前にした瞬間から、ころころ、ゆらゆら、動き始める。転がりながら言葉を探す。球体である。それにならうなら、モヒカンは重くて大きな立方体。自由に動くことすらままならない。自分の世界から抜け出せない。いきおい、そのコピーも自分の世界の公用語、つまり、独善的になってしまう。独りよがりの言葉には、加速度がない。ゆえに失速する。そして、その言葉は永遠に受け手には届かない。

「真球的」なのは、ある種の職業病なのかな、とも思う。

あちこち首を突っ込むうちに、たしかに雑学だけは増えて、飲み会では重宝される。その一方で、ふらふらした印象が「軽い」と思われがちだし、知識に偏りはないとしても深くはないから、器用貧乏の印象が付きまとう。

「真球病」は、一歩仕事場を出ると由々しき事態を引き起こす。あれもいい、これもいい、である。カメラを構える。さあ、自由に撮ろうと思う。その瞬間に、どうしていいのかわからなくなるのだ。スケッチブックを開いてもそう。描きたい対象があったとしても、それをどう表現していいのかわからず混乱する。あんな風に描きたい。こんな風にも描きたい。もっと身近な例では、ツイッターのタイムライン。どれもこれも「いいね」に思えてしまう。たとえ、対立する意見だとしても、そういう考え方もある、いや、でもこっちの見立ても一理ある、と。ここでもやはり、ころころと転がってしまう。

転職を考えている。もう、かれこれ5年以上は悩んでいる。ふんぎりがつかない原因が、この「真球病」にある。表現したい対象があったとしても、腰がふらつく癖はなかなか抜け切らず、これなのか、あれなのか、いや違う、と試行錯誤を繰り返す。

同じリンゴを表現するにしても、明るく健康的でやさしい世界から描いたリンゴと、暗く冷たくグロテスクな世界を通して描いたリンゴがある。ふたつの世界、そのどちらも居心地がよさそうに思えて、ノマドのようにさ迷ってしまうのだ。

そろそろ覚悟を決めて定住しなくては、と焦る。ひとつの「鉱山」に住処を定め掘り進めなければ、中途半端なままで終わってしまう。どこの世界に住もうが「正解」はきっとない。あとは、窓から見える風景を丹念に描写していくだけだ。どこに住もう。地図を眺めて溜息をつくのは、そろそろ終わりにしなければ。

どうぞ、まっすぐ、みてください

小さくて大きな広告の話をします。

媒体は、テレフォンカード。広告主は、体の不自由な人の自立支援を行っているNPO「札幌いちご会」。コピーライターは、糸井重里さん。ビジュアルは、アンティークのサルのぬいぐるみ。よく見ると、サルの片一方の手はとれています。その写真に寄り添うように、キャッチフレーズとボディコピー。キャッチフレーズは、こうです。

どうぞ、まっすぐ、みてください。

ボディコピーは、肝心のテレフォンカードが手元にないので、記憶を頼りに書き起こしました。こちらです。

体の不自由な人と、もしばったり出会ったなら、目をそむけたりしないでください。すぐに駆け寄って手を差しのべることも、すこしだけ待ってください。その前に、まずは普通に、いつものように、どうぞまっすぐみてください。

(実際は、もっと柔らかくて親しみやすい文章だったと記憶しています。なるべくその雰囲気を再現したかったのですが……。記憶が曖昧なうえ、文章力不足で申し訳ありません)

僕は、体の不自由な人の苦しみがわかりません。わからないというのは、その苦しみや悲しさを想像できたとしても、それはあくまで想像にすぎず、ゆえに、簡単には言葉にできないという意味です。「大変でしょう」 たった数秒で言い終えてしまう「部外者」の言葉など、苦しみを一生背負っていかなければならないであろう重い現実に対して、あまりにもよそよそしく、軽く、そして薄っぺらです。

その一方で、体の不自由な人に特別な人として接するのか、と問われたなら、答えは「ノー」です。体の不自由な人の中にも、当然、好きな人と嫌いな人がいる。良い人もいれば、悪い人もいる。健常者に、好きな人と嫌いな人がいて、良い人もいれば悪い人もいるように。その意味において、両者は寸分も違わない。

体に障害があるという苦しみや悲しみは、言葉にできない。と、同時に体の不自由な人は、特別ではない。この「ねじれた」関係が、心の中で共存している。そのせいで、しばしば僕は、混乱し、言いよどみ、ふらつき、途方に暮れてしまう。

どうぞ、まっすぐ、みてください。

この言葉は、どうしろ、こうしろとは、ひと言も言ってはいない。考えること、思うこと、当然いろいろあるとは思うけれど、その前に、その大前提として、「まっすぐ、みてください」とだけしか記されていない。最終判断を受け手に委ねつつ、同時に「フラットであること」の大切さを(控えめではあるけれど)、しっかり掴まえている。

糸井重里さんは、大好きなコピーライターです。コピーをなんどもなんどもノートに書き写しては、勉強させてもらいました。システムノートに、文章を貼り付けて、暇さえあれば眺めていた時期もありました。

その糸井さんの数多くの作品の中で、今でも真っ先に思い出すのが、このコピーです。しかし、コピーの技術云々ではなく、広告の枠組みを超えて、大切なにかを教えてもらった、という意味で。人生のシステムノートがあるとするなら、その1ページ目はきっと「どうぞ、まっすぐ、みてください」です。

自由律俳句 #003

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自由律俳句は、五七五の音数や季語や切れ字にとらわれることなく、文字通り自由に詠まれた俳句です。代表的な俳人に、種田山頭火、尾崎放哉、住宅(すみたく)顕信らがいます。詳しくはこちらをどうぞ。自由律俳句(ウィキペディア)

寓話 アライさん

 

 アライグマを見ていた。かれこれ10分はたったと思う。水あめを薄く溶かしたような小川の、苔むした石に腰掛けて、体のあちこちを一心不乱に洗っている。僕は彼の気を散らさないよう、そっと近づいて声をかけた。

「いったい、そこで、なにを洗っているの?」

 アライグマは、首だけを僕にくるっと向けると、面倒くさそうに答えた。

「悪い心だよ」

 まさかそんな答えが返ってくるとは、思ってもいなかった。さらにゆっくり近づく。トレッキングシューズの下で小枝が折れた。ポキポキ。その音は、拡散することなく湿った地面に吸い込まれてゆく。

「悪い心?」

「そうだよ。悪い心」

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色を聞く

数週間前から気になっていた文章が、発掘されました。1984年にオンエアされたラジオCMのナレーション原稿。

書いたのは、寺山修二さん。どうしても、もう一度読みたくて探していたのですが、見つからなかった。あきらめかけたいたときに、ひょっこり出てきました。大好きなコピーです。みなさんにご紹介します。

※以下、全文引用

 

ラジオCM「ソニーカセットテープ 色と音篇」 (コピーと出演/寺山修司

みなさんこんばんは、寺山修司です。

ぼくたちは、いろんな色を見ることができるわけですが、

目の見えない子供たちは、色をどんなふうに感じてるのか。

きのう、文京盲学校の生徒さんたちと会って話したわけです。

すると目の見えない子供たちは、

色を音であらわすんだ、と答えてくれました。

それで、白ってどんな音かって聞くと、

こんな音だって答えてくれました。

「ボーッボーッ」 (SE:汽笛)

金色は?って聞くと、金色はこんな音でした。

「カンカンカン」 (SE:鍋)

鍋をたたく音なんだそうですね。

それで、非常に金色に似た色ですけど、

お月さんはどんな音してる?って聞くと

ドロドロの油の中に石を投げこむ音だ、って答えてくれました。

で、ぼくはますます興味をもって、

鏡はどんな色をしているのかな?って聞いてみました。

すると目の見えない子供たちは、

絹糸の切れる音だって答えてくれました。

「プツン」 (SE:絹糸)

もし人生がバラ色だとしたら、

それは目の見えない子供たちにとって

どんな音であらわすのか。

ぼくは、まぁ、考えこんでしまったわけです。

(Na) 

ぼくたちは、いい音が大好きです。

ソニーカセットテープ

イレイサーヘッド

これは、僕が小学校の2年か3年生の時のお話です。

生家では、よほどのことがないかぎり、家族全員で食卓を囲む、というのが暗黙のルールでした。しかし、食事中に家族で楽しく会話をした、という記憶がほとんどありません。テレビはいつも消されていたし、必要最小限の会話しか許されない雰囲気が、食卓を支配していました。

食器が触れあう音。やかんがシューシューという音。あわてて席を立つ母。光沢のない床板と、タイルがところどころ抜け落ちた肌寒く薄暗い食堂。これが僕の一家団欒の原風景です。たしかに辛気臭い食卓なのですが、余計なことはしゃべらずに黙々と食べるという習慣は、それほど珍しいことではなく、当時の日本の食卓の多くは、ひっそりしていたのだと思います。

その日も、いつものように家族がテーブルに顔をそろえ、上座には祖父が塑像のように座っていた。献立までは覚えていないのですが、あいかわらず一同は、淡々と箸を運んでいたはずです。その沈黙の中で、唐突に祖父が口を開きました。

「ノブ、もう中村の子供とは遊ぶな」

中村というのは隣家のことで、そこには姉妹がいました。上の子とは同級生です。僕は、小学校3年生くらいまで、女の子のように育てられました。遊び相手は、いつも女子。おままごとや手芸の真似ごとや塗り絵が定番で、服が泥だらけになるとか、かさ蓋を作るということは一切なかった。その中でも、とりわけ仲が良かったのは「中村のお姉ちゃん」でした。

驚いた僕は、反射的に祖父に訊きました。「どうして?」一瞬、祖父の手がぴたりと止まりました。

「あそこは、アカだから」

「アカってなに?」

祖父は、問いかけに答えようとはせず、なにごともなかったかのように味噌汁を口に運びます。呆気にとられた僕は、家族全員を見わたしました。すると祖母も両親も叔母(叔母は嫁入り前で同居していたのです)も目を伏せたまま、深海魚のように身じろぎもしない。子供心にも、自分は訊いてはいけないことを訊いてしまったことに気づきました。それ以降、この話題は、一切話されることはなく、またひとつ、新しいタブーが家族に追加されました。

その後も(以前ほどは大っぴらではないにしろ)、僕はあいかわらず中村姉妹と遊んでいたし、それを咎められることもなかった。その一方で、祖父の口をついた「アカ」という言葉は、焼印のようにくっきりとした輪郭をもち続けたままでした。

ある日、学校から帰って、なにげなく中村家の様子をうかがうと、玄関の引き戸が、開けっ放しになっていることがありました。当時は、鍵をかける家はほとんどなく、天気が良い日は窓だけではなく、玄関の戸が開け放たれていることも珍しくはなかったのです。

上がり框(かまち)に手をついて、中をそっと覗き込む。玄関を入ってすぐの階段に、上から下まで新聞がうず高く積まれていました。踏み板の右半分を新聞が占領していたので、昇り降りするスペースは、人ひとりがやっと通れる程度。山積みの新聞は普段から見なれたそれではなく、『赤旗』という題字が、はっきりと印刷されていました。乱雑に積み重ねられた新聞紙の束は、家庭の温もりとは程遠く、けっして裕福とは言えない生活ぶりをいっそう際立たせていました。

僕は、中村家の父親も母親も好きだった。

お父さんは、小柄で小太りで黒ぶちの丸眼鏡をかけていて、頭はイレイサーヘッドのよう。眼鏡の度がきついせいで、こまかな表情までは読みとれなかったけれど、いつもニコニコしていた印象があります。黒い布の腕カバーがトレードマークで、くたびれた白いカッターシャツのところどころに油のしみがありました。いま思うと地方都市の赤旗局員は、記事を書くだけではなく、時には活字を拾い、あるいは輪転機を回すこともあったのでしょう。

お母さんは、お父さんとは対照的に、背が高くすらっとしていて、髪は艶のない“べっちん”で、華やいだ服装をしているのを、一度も見たことがありません。まるでウクライナの農婦のような人でした。前掛けを開くとジャガイモがこぼれてきそうな。

僕は、やがて普通に男の子たちと遊ぶようになり、かさ蓋を作り、ズボンを泥だらけにし、そして、中村家とはだんだん疎遠になりました。祖父は逝き、深海みたいな食事風景が再現されることもなくなりました。

子供の頃、世界には「シミ」ひとつもなく、すべてが明快で単純なものだと信じていました。いや、正確に表現するなら、矛盾や禁忌という概念がそもそもなかった。

ところが、祖父の言葉をきっかけにして、世の中には、人々が語りたがらないこと、見て見ぬふりをするもの、そしてかかわらない方が「無難」な事柄が、そこら中にあることを知りました。

このことは、世界を薄汚れたものではなく、そこは自分が想像しているよりも、はるかに重層的で複雑なこと教えてくれた。4を2で割ると答えは2で、あまりは0という風に、世界はすっきりとはしていないということです。

このエピソードが、今の自分にどんな影響を与えたのかは、よくはわからない。ただし、今も世界には「あまり」があって、そこから目をそらすべきではないこと。実用的な計算で「あまり」が重視されることはまれですが、時として、その「あまり」にこそ、見逃してはならない何かがあることを知りました。

「その計算に、あまりはないですか?」

イレイサーヘッドを思い出すたびに、今でもそう語りかけられているような気がしてならない。3割る2は1。そして、そこには、1がひっそりと残されています。