コンポジション

地味なブログです。お役立ち情報は皆無です。感じたこと、思ったこと、考えたことを、ぽつりぽつりと書いています。受け売りではなく、自分で考えたことを書くようにしています。嘘や誇張もできるだけないように、と思いながら書いています。写真も公開する予定です。

どこに住もうか

真球になりたかった。

どこを測定しても寸分たがわぬ精度で、傷ひとつないなめらかさで、銀色の光沢を放つ硬度で、転がり続けたかった。真球を意識しながら生きてきたわけではない。けれども、気づくといつも転がっていたように思う。

目についたものは、なりふりかまわず首を突っ込む。くぼ地にはまって、身動きとれなくなることが怖かった。静止することは停滞ではなく、後退を意味した。いつまでも、どこまでも、とにかく転がっていたかった。片時も休むことなく。

良く言えば、自由奔放。悪く言えば、すべてが中途半端である。

コピーライターに求められる能力、それがいまだによくわからない。文章力であったり、観察眼であったり、常識を疑う用心深さであったり、いろいろ言われてはいるけれど、正直、どれもピンとこない。ただひとつ言えるのは、「モヒカンには、モヒカンのコピーしか書けない」という例えだ。

そもそもコピーライターは、原稿用紙を前にした瞬間から、ころころ、ゆらゆら、動き始める。転がりながら言葉を探す。球体である。それにならうなら、モヒカンは重くて大きな立方体。自由に動くことすらままならない。自分の世界から抜け出せない。いきおい、そのコピーも自分の世界の公用語、つまり、独善的になってしまう。独りよがりの言葉には、加速度がない。ゆえに失速する。そして、その言葉は永遠に受け手には届かない。

「真球的」なのは、ある種の職業病なのかな、とも思う。

あちこち首を突っ込むうちに、たしかに雑学だけは増えて、飲み会では重宝される。その一方で、ふらふらした印象が「軽い」と思われがちだし、知識に偏りはないとしても深くはないから、器用貧乏の印象が付きまとう。

「真球病」は、一歩仕事場を出ると由々しき事態を引き起こす。あれもいい、これもいい、である。カメラを構える。さあ、自由に撮ろうと思う。その瞬間に、どうしていいのかわからなくなるのだ。スケッチブックを開いてもそう。描きたい対象があったとしても、それをどう表現していいのかわからず混乱する。あんな風に描きたい。こんな風にも描きたい。もっと身近な例では、ツイッターのタイムライン。どれもこれも「いいね」に思えてしまう。たとえ、対立する意見だとしても、そういう考え方もある、いや、でもこっちの見立ても一理ある、と。ここでもやはり、ころころと転がってしまう。

転職を考えている。もう、かれこれ5年以上は悩んでいる。ふんぎりがつかない原因が、この「真球病」にある。表現したい対象があったとしても、腰がふらつく癖はなかなか抜け切らず、これなのか、あれなのか、いや違う、と試行錯誤を繰り返す。

同じリンゴを表現するにしても、明るく健康的でやさしい世界から描いたリンゴと、暗く冷たくグロテスクな世界を通して描いたリンゴがある。ふたつの世界、そのどちらも居心地がよさそうに思えて、ノマドのようにさ迷ってしまうのだ。

そろそろ覚悟を決めて定住しなくては、と焦る。ひとつの「鉱山」に住処を定め掘り進めなければ、中途半端なままで終わってしまう。どこの世界に住もうが「正解」はきっとない。あとは、窓から見える風景を丹念に描写していくだけだ。どこに住もう。地図を眺めて溜息をつくのは、そろそろ終わりにしなければ。