コンポジション

地味なブログです。お役立ち情報は皆無です。感じたこと、思ったこと、考えたことを、ぽつりぽつりと書いています。受け売りではなく、自分で考えたことを書くようにしています。嘘や誇張もできるだけないように、と思いながら書いています。写真も公開する予定です。

掌編小説 バンビ

 

 悟は、鳩が何羽いるのか数えていた。十羽目からは面倒になって、カフェテリアとテラスを隔てている「はめ殺し」の大きなガラス窓をぼんやりと眺めていた。それにしてもこいつらは四六時中なにを啄(つい)ばんでいるのだろう。毛虫? ポテトチップスの食べかす? 落ちているものはとりあえず手当たり次第につつく、きっとそういう習性なのだ。

「見せろよぉ。どっかにウプとかしなきゃ別に平気でしょ?」カナの声だ。

「とりあえず、落ち着け」そしてユウジ。

 カナの携帯が、初夏の陽差しを受けてやわらかく光る。携帯の背には、ビーズであしらわれたバンビ。カナが一歩あるくたびに、ビーズのひとつひとつが陽の光を反射し、モルタルの天井にピンクや淡いブルーの輪を作る。

 一週間くらい前にカナは、このバンビは自分で原画を描き、貼りつけたと自慢していた。しかし、悟は、TSUTAYAでまったく同じバンビのキットが売られているのを知っていたから、わざと冷淡に「へえ、すげえじゃん」と流した。

 カナは、自分の嘘がバレているとは、気づいていないだろう。いや、もし気づいていたとしても、その嘘を呵責する感覚はとっくに麻痺している。ディズニーが好きな女なんて、そんなもんだ。

 ユウジはスニーカーで、白いプラスチックの椅子を軽く蹴ると、そのままだるそうに体重を預けた。カナは携帯を畳み、それを真珠のような光沢のショルダーバッグに押し込むと「早く見してよー」とユウジをせかす。「ちょっと待て」 ユウジは、テーブルにスニーカーの踵を乗せていた。短パンに素足。授業やバイトのない日は、近所の駒沢公園で焼いているから、肌はもうすっかり小麦色だ。

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テイスト オブ ハニー

テレビ局、とくに民放は、人々が観たい番組を制作し放送する。視聴率を度外視して、自分たちの作りたいものだけを作る、というスタンスは成立しない。視聴率ありき。より多くの人に観てもらうことによって、採算を取っているのだから、当たり前の話だ。利益を追求することは、テレビ局も一般の企業も変わりはない。

昨日、歌舞伎俳優の市川海老蔵さんが、会見を開いた。妻の小林麻央さんが、進行性の乳がんを患い、闘病中であること。進行が早く、深刻な状況であることを明らかにした。

彼が、どのような経緯で、どのような理由で、病状を発表したのかはわからない。彼はつとめて軽く、平静に、受け答えをしている印象をうけた。聞くところによると、小林麻央さんが、中継を観ていたそうで、彼女の心情をおもんばかっての「軽さ」だったとしたら、胸がつまる。

この中継に対し批判が起きた。その矛先は、テレビ局と記者の質問に向けられ、いわく「芸能人だからといって、こうした会見がそもそも必要なのか」「なぜ、がんのステージを執拗に聞くのか」「5年後の生存率なんて知りたくもない」

批判すること、それ自体はもちろん自由だ。どんな理由があるにせよ、記者の質問の中には、行き過ぎたものがあったことは、たしかだと思う。相手が「公人」だからといって、なにを聞いても許される、あなたには話す義務がある、という考え方は乱暴だ。

冒頭の話に戻る。テレビ局は、人々が観たい知りたいと思うものを放送する。その意味で、構造的に番組と視聴者は「合わせ鏡」の関係にある。もちろん、それがすべてではないけれど。が、件の会見に限っていうなら、局の本音はこうだろう。

「私たちは、視聴者を代弁しているのに過ぎない」

この手の批判が起こるたびに思う。世の中には想像以上に「人の不幸は蜜の味」と感じる人が多いこと。対象が著名人、権力者であればあるほど、その蜜の味は甘く、カタルシスに包まれ、うっとりする人が一定数いること。こうして偉そうに書いているぼく自身も、そういうところはきっとある。

メディアを批判することは自由だし、むしろ、メディアの動向は目を光らせる必要がある。と、同時に、彼らに向けられた批判は、私たちに向けられたそれと多くの部分が「重複」していることを忘れてはいけない。ここを抑えているか否かで、批判の重さもおのずと変わってくるのだろう。

なんだか堅苦しい話になってしまいましたが、人がつらく苦しく悲しい思いをしていたら、まっさきに「だいじょうぶかな」と思える人でありたい。人のしあわせこそが、蜜の味だと思いたい。ぼくにとっては、きつい道のりだとは思うけれど、そうありたいな、というお話でした。

ワタシはアナタで、アナタはワタシ

ツイッターのタイムラインをぼんやりながめる。

すき。きらい。本当にその通り。だいたい賛成だけど、そこは違うと思う。不快。もっと知りたい。わかった。わからない。不安になる。怖い。かわいい。本当かな。嘘かも。楽しそう。おいしそう。きれい。なつかしい・・・。

目まぐるしく流れる情報は、まるでジェットコースターからながめる景色のようだ。感情がころころと転がってゆく。そうこうしているうちに、奇妙な感覚にとらわれることがある。

「私とは、いったい、何者なのか」

自分自身を「塑像」にたとえてみる。感情の揺れは、塑像に粘土を塗り重ねること、肉付けすること、削ること、なめらかにすることに、どこか似ている。そして「私」が一瞬出来上がっては、すぐに、再び別の手が加えられてゆく。

ここで、私は、私という塑像に手を触れていない。私は、私を放棄している。そして、私とはいったい全体、何者なのかといぶかしく思う。いや、その前に、私は本当に「いる」のだろうか、とさえ思う。

妄想をもうすこし膨らませます。

次から次へと手を加えられる私という塑像。ここでの私は、意思をもたない粘土のカタマリにすぎず、他者の介入によってのみ、その「姿かたち」を保っている。言い換えるなら「私は、あなた」なのだ。もちろん、この関係は一方通行ではない。「あなた」も、複数のだれかによって「姿かたち」を保持している。これを僕単独の目線で表現するなら「あなたは、私」である。

妄想と断ったのには、理由がある。この場合、塑像である私をアトリエの隅から観察している「もうひとりの私」が、いなければならない。さらに、その観察者を観察している「さらなる私」も必要だ。さらに、さらに・・・。そうしてこの命題は、トートロージーに陥る。つまり、答えがでない。

カントをもちだすべくもなく「私とは、いったい、何者なのか」という命題は、考えることそれ自体、きっと無駄なのだろう。また、私たちの使っている言語そのものが、この手の命題を推論するには、不向きなのかもしれない。

けれども、僕は、「私はあなたで、あなたは私」と思うとき、それはなぜか不快な感じではなく、むしろ、ある種の心地よさ、暖かさ、さえ感じるのだ。答えにたどり着けないことは、わかってはいるけれど、もう少し、考えてみようと思う。ここには、なにか重要なことが、隠されているような気がするから。

おっと、気がつくともう朝です! あなたの私は、三時間ほど仮眠をとります。おやすみなさい。

 

自由律俳句 #001

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自由律俳句は、五七五の音数や季語や切れ字にとらわれることなく、文字通り自由に詠まれた俳句です。代表的な俳人に、種田山頭火、尾崎放哉、住宅(すみたく)顕信らがいます。詳しくはこちらをどうぞ。自由律俳句(ウィキペディア)

ちょっとまて

ここ数年で、スマホやパソコンにふれなかった日は、あっただろうか。仕事のある平日はもちろん、歩いて5分のコンビニに行くときでさえ、玄関先でポケットのスマホを確認している。四角く硬い感触がそこにあると、土に触ったような安心感がある。たかだかコンビニと家との往復で、なにが起こるというわけでもないのに。

いまから、自分だけがネットを使えない生活が、はじまるとする。

仕事は完全にお手上げだ。休日は、どうやって乗り切ろう。趣味や読書や散歩で時間を「潰す」。そう、過ごすではなく時間を潰す。ネットから隔離された瞬間、それまでの日常は、色を失い、のっぺりとして、陳腐なものに変貌してしまう。

スマホやウェブの本当の怖さは、「もしそれがなかったら」を想像できない点にある。これはもう、依存と呼んでいいのかもしれない。

その反動もあるとは思うけれど「ネットを断つ」系の記事が増えている。スマホやパソコンから少し離れて、家族と過ごす時間を増やしましょう。近くの川で風に吹かれるのも、いいですよ。たしかにその通りだ。本当にたいせつだと思う。ごもっとも。

けれども、それと同時に、この手の「自然回帰」「家族のとのふれあい」的な話が増えるにつれ、そんなに単純でいいのかな? とも思う。「ネット=悪、自然=善」という二元論は、単純で耳ざわりがいいぶん、鵜呑みにするにはなにやら危なかっしい雰囲気もある。

やさしくて耳ざわりのよい言葉は、抵抗なく頭に吸い込まれていく。が、耳ざわりがよいことを目的に書かれた文章は、おうおうにして中身がスポンジのようにスカスカだ。そして私たちから、立ち止まること、考えることを無意識のうちに奪い取ってしまう。

ネット依存から耳ざわりのよい言葉に、話がわき道にそれてしまいました。でも、本当に言いたかったことはこっち。やさしくて耳ざわりのよい言葉ほど、気を引き締めなければ、というお話です。そして、耳に痛い話には、今の自分に必要なものがカチンと詰まっているから、耳が痛いのだ、ということもお忘れなく。

キリンの子

昨日、いや、正確には一昨日の夜。たまたまテレビのスイッチを入れると、歌人の鳥居さんが写っていた。「鳥居」は、姓でも名前でもなく、彼女全体で鳥居さんだ。「彼女全体」という表現は、なんだかヘンだけど。

番組はドキュメンタリー風ではあるが、広い意味でのバラエティ番組だ。何人かのゲストがスタジオに招かれ、再現VTRとともに、自分のこれまでの人生を振り返る。番組のテーマは「逆転」。苦労のどん底から這い上がり、いかにして自分は今の成功を手にしたか。

正直に言うと、この種の番組は好きじゃない。人の成功談を聞いたところで、それを自分が実践したところで、同じような結果にはならないという確信があるからだ。たとえて言うなら、ファッション雑誌でどんなに素敵なシャツを見つけたところで、それが自分に似合うかどうかは別問題、という感覚に似ている。

ではなぜ、チャンネルを変えなかったのか。それは、鳥居さんが歌人で、初めて出版した歌集『キリンの子』が爆発的に売れ、増刷が間に合わないと番組で紹介されていたから。僕は、短歌の素人だけれど、短歌を読むことは好きだ。

彼女のどん底の生活について、触れておこう。

幼い頃の両親の離婚。小学校時代のいじめ。同居していた母親の自殺。預けられた擁護施設で教諭から「ゴミ以下の人間」「自殺するなら遺書を書け」と罵られたこと。職員や入居している子どもたちによる虐待と暴力。やがて、たったひとりの肉親だった祖母も亡くなり、彼女は、正真正銘の天涯孤独になる。そしてついには、住む家を失いホームレスへ。

ホームレスになった彼女は、新聞を拾い集めては、小さなコラムを切り抜きそれをたいせつにリュックに保管していた。そこには、一日一語「ことば」にまつわる、さまざまなエピソードがしるされていた。そのコラムで彼女は文字を学び、言葉のもつ力にどんどん引き寄せられていく。

彼女の成功には、三人の歌人が関係している。コラムの筆者。はじめて図書館で手にした歌集の歌人。そして「君は短歌を詠みなさい」と助言した歌人。好きな短歌をノートに書き写し、読めない漢字があったら、辞書を引きルビをふった。やがて彼女は才能を開花させる。応募した短歌が約3000首のなかから佳作に選ばれ、ウェブに発表していた歌は、確実にファンを増やしていった。

印象的だった言葉ある。「自分は、生きていていいんだ」「私のような人間でも、きっと誰かの役に立つ」。手垢のついた言葉かもしれない。けれども、「死ね」「ゴミ以下」と罵られ続けた人間のそれは、重さが違う。

彼女がこれからどんな歌人に成長していくのか。僕には、想像もつかない。新しい歌集が何部売れて、どれほど著名な歌人になるのだろう。いや、ひょっとすると、一冊の歌集を出して、あとが続かなくなるかもしれない。それは、わからない。

ただ言えるのは、おそらく彼女はこれからも、きっと死ぬまで歌を書き続けること。そして、今も、彼女がどこかで歌を作り続けている。そのことを思い起こすたびに、僕は勇気をもらうこと。言葉の力を信じようと思う。キリンの子でいたいと思う。

 

目を伏せて空に伸びゆくキリンの子 月の光はかあさんの色   鳥居