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コンポジション

地味なブログです。お役立ち情報は皆無です。感じたこと、思ったこと、考えたことを、ぽつりぽつりと書いています。受け売りではなく、自分で考えたことを書くようにしています。嘘や誇張もできるだけないように、と思いながら書いています。写真も公開する予定です。

イレイサーヘッド

エッセイ

これは、僕が小学校の2年か3年生の時のお話です。

生家では、よほどのことがないかぎり、家族全員で食卓を囲む、というのが暗黙のルールでした。しかし、食事中に家族で楽しく会話をした、という記憶がほとんどありません。テレビはいつも消されていたし、必要最小限の会話しか許されない雰囲気が、食卓を支配していました。

食器が触れあう音。やかんがシューシューという音。あわてて席を立つ母。光沢のない床板と、タイルがところどころ抜け落ちた肌寒く薄暗い食堂。これが僕の一家団欒の原風景です。たしかに辛気臭い食卓なのですが、余計なことはしゃべらずに黙々と食べるという習慣は、それほど珍しいことではなく、当時の日本の食卓の多くは、ひっそりしていたのだと思います。

その日も、いつものように家族がテーブルに顔をそろえ、上座には祖父が塑像のように座っていた。献立までは覚えていないのですが、あいかわらず一同は、淡々と箸を運んでいたはずです。その沈黙の中で、唐突に祖父が口を開きました。

「ノブ、もう中村の子供とは遊ぶな」

中村というのは隣家のことで、そこには姉妹がいました。上の子とは同級生です。僕は、小学校3年生くらいまで、女の子のように育てられました。遊び相手は、いつも女子。おままごとや手芸の真似ごとや塗り絵が定番で、服が泥だらけになるとか、かさ蓋を作るということは一切なかった。その中でも、とりわけ仲が良かったのは「中村のお姉ちゃん」でした。

驚いた僕は、反射的に祖父に訊きました。「どうして?」一瞬、祖父の手がぴたりと止まりました。

「あそこは、アカだから」

「アカってなに?」

祖父は、問いかけに答えようとはせず、なにごともなかったかのように味噌汁を口に運びます。呆気にとられた僕は、家族全員を見わたしました。すると祖母も両親も叔母(叔母は嫁入り前で同居していたのです)も目を伏せたまま、深海魚のように身じろぎもしない。子供心にも、自分は訊いてはいけないことを訊いてしまったことに気づきました。それ以降、この話題は、一切話されることはなく、またひとつ、新しいタブーが家族に追加されました。

その後も(以前ほどは大っぴらではないにしろ)、僕はあいかわらず中村姉妹と遊んでいたし、それを咎められることもなかった。その一方で、祖父の口をついた「アカ」という言葉は、焼印のようにくっきりとした輪郭をもち続けたままでした。

ある日、学校から帰って、なにげなく中村家の様子をうかがうと、玄関の引き戸が、開けっ放しになっていることがありました。当時は、鍵をかける家はほとんどなく、天気が良い日は窓だけではなく、玄関の戸が開け放たれていることも珍しくはなかったのです。

上がり框(かまち)に手をついて、中をそっと覗き込む。玄関を入ってすぐの階段に、上から下まで新聞がうず高く積まれていました。踏み板の右半分を新聞が占領していたので、昇り降りするスペースは、人ひとりがやっと通れる程度。山積みの新聞は普段から見なれたそれではなく、『赤旗』という題字が、はっきりと印刷されていました。乱雑に積み重ねられた新聞紙の束は、家庭の温もりとは程遠く、けっして裕福とは言えない生活ぶりをいっそう際立たせていました。

僕は、中村家の父親も母親も好きだった。

お父さんは、小柄で小太りで黒ぶちの丸眼鏡をかけていて、頭はイレイサーヘッドのよう。眼鏡の度がきついせいで、こまかな表情までは読みとれなかったけれど、いつもニコニコしていた印象があります。黒い布の腕カバーがトレードマークで、くたびれた白いカッターシャツのところどころに油のしみがありました。いま思うと地方都市の赤旗局員は、記事を書くだけではなく、時には活字を拾い、あるいは輪転機を回すこともあったのでしょう。

お母さんは、お父さんとは対照的に、背が高くすらっとしていて、髪は艶のない“べっちん”で、華やいだ服装をしているのを、一度も見たことがありません。まるでウクライナの農婦のような人でした。前掛けを開くとジャガイモがこぼれてきそうな。

僕は、やがて普通に男の子たちと遊ぶようになり、かさ蓋を作り、ズボンを泥だらけにし、そして、中村家とはだんだん疎遠になりました。祖父は逝き、深海みたいな食事風景が再現されることもなくなりました。

子供の頃、世界には「シミ」ひとつもなく、すべてが明快で単純なものだと信じていました。いや、正確に表現するなら、矛盾や禁忌という概念がそもそもなかった。

ところが、祖父の言葉をきっかけにして、世の中には、人々が語りたがらないこと、見て見ぬふりをするもの、そしてかかわらない方が「無難」な事柄が、そこら中にあることを知りました。

このことは、世界を薄汚れたものではなく、そこは自分が想像しているよりも、はるかに重層的で複雑なこと教えてくれた。4を2で割ると答えは2で、あまりは0という風に、世界はすっきりとはしていないということです。

このエピソードが、今の自分にどんな影響を与えたのかは、よくはわからない。ただし、今も世界には「あまり」があって、そこから目をそらすべきではないこと。実用的な計算で「あまり」が重視されることはまれですが、時として、その「あまり」にこそ、見逃してはならない何かがあることを知りました。

「その計算に、あまりはないですか?」

イレイサーヘッドを思い出すたびに、今でもそう語りかけられているような気がしてならない。3割る2は1。そして、そこには、1がひっそりと残されています。