それ、本当の言葉じゃないから
2008年の冬だったと思う。サービスが始まったばかりの「ニコニコ生放送」(以下、ニコ生と略)が物珍しくて、2週間ほど集中的に観ていた時期がある。当時から「ネトラジ」と呼ばれる音声のみのストリーミングサービスはあったが、一般の人々がライブ映像を気軽に配信できるサイトは限られていて、ニコ生がこの先どんな風に浸透してゆくのか、そこに興味があった。
と、もったいぶった書き方をしたけれど、本当の理由は「2チャネラー」っていったいどんな連中なんだろう、という好奇心だ。もちろん、ニコ生の配信者イコール「2チャネラー」ではない。しかし、僕の認識は同じカテゴリーに属する人、つまり、どちらもオタク系の人たちだった。
が、いざ蓋を開けてみると拍子抜けした。画面の向こう側の人々は、特殊でもなんでもなく、たとえば通勤電車で乗り合わせるような、学食でうどんをすすっているような、ごくごく普通の人たちだった。もっとも、僕は、アニメやゲームに疎いので、その手の配信を無意識のうちに避けていただけかもしれないけれど。
それは、冷え込みの厳しい夜だった。いつものようにニコ生を徘徊していると、一人の女の子のサムネイルが目にとまった。配信を覗くと盛況だった。すでに200人以上の閲覧者が彼女の放送に集まっていた。年齢は、17と言われるとそうだと思うし、25と言われるとそうかなと思う。10人中7人の男は、美人と言うだろうし、残りの3人はかわいいと言うだろう。つまり、年齢不詳でどこかミステリアスな雰囲気をまとった美人、それが彼女だった。
彼女がどんな話していたかは記憶にない。ただ、かたわらに灰色のウサギがいて、なにかを食べるでもなく動き回るでもなく、よくできた置物のようにじっとしていたことは、今でも不思議と覚えている。彼女はそんな容姿にもかかわらず、いや、そんな容姿だからこそ閲覧者に終始「煽られて」いた。本人がその「ゲーム」に反応すればするほど、周囲はヒートアップしてゆく。画面を右から左に流れる文字列は、2ちゃんねるの煽りとなんら変わりはなかった。
今でいうところの「スルースキル」が、彼女には備わっていなかったのだと思う。どうでもいいようなコメントにまで、顔を上気させて反論していた。もっとも、スルースキルなど養う必要はない。第一義的に問題なのは、相手をからかうことでしかコミュニケーションがとれない貧弱な品性であって、本人に非があるわけではない。
罵詈雑言と反駁の往復。煽りは、転がる雪玉のようにますますヒートアップしてゆく。煽りというよりも、もはや言葉による集団リンチだ。内心、配信を切ったらいいのにと思っていると、彼女は配信をやめる代わりにキッチンに立ち、手にコンビニ袋をぶら下げて再びあらわれた。袋を逆さまにして中身をコタツの上に広げる。大量のクスリだった。カプセル、粉末、錠剤。ゆうにどんぶり三杯分はあるだろう。彼女は、それを適当につまんでは「午後の紅茶」と一緒に飲み干していく。ゆっくり、ひとつずつ、淡々と。視線をカメラに合わすこともなく。それはまるで、どこか知らない国の宗教儀式を見ているようだった。
ここで煽っていた連中の苛立ちは、ピークに達する。
「とっとと氏んでください」「でたでた、カマッテちゃんwww」「死ぬ死ぬ詐欺、うぜー」速射砲のように言葉が浴びせられてゆく。この次点で閲覧者は300人をはるかに越えていたと思う。20錠ほど飲み干したところで、コメントの流れが変わった。オーバードーズを止めようとする人、煽っている連中を非難する人が、ぽつりぽつりと現われ始める(あるいは「煽りと擁護」その両方を演じるアカウントがいたかも知れない)。
僕はといえば、ただの傍観者だった。正直に話すと、目の前で自殺されるのは冗談じゃないと思っていた。かと言って自分がコメントをすることで、たとえ1ミリだとしても状況に変化させることが、いやだった。またそうするべきではないとも思っていた。もっとも、処方薬であってもよほど大量に服用しなければ死ぬことはないし、状況に関与しないといってもすでに「閲覧者の中のひとり」というカタチで関わってはいたけれど。
擁護派は「大丈夫、Aちゃんならきっと上手くいくから」「命を大切にしろ。生きていればいいことがある」「悩んでるのはAちゃんだけじゃないよ」というコメントで、必死に「応酬」していた。そんな荒れた展開をながめているうちに、僕は奇妙な感覚に包まれていった。
擁護派のコメントが、安っぽい芝居の台詞のように思えてきたのだ。彼女が主役でその脇を固める擁護派。彼らのコメントは、よそよそしくまるで定型文ようだった。その言葉は、彼女に向かって発せられたというよりも、舞台から観客に投げかけているようでもあり、あるいは自分自身に向かって語りかけているような、そんなまとわりつくような厭らしさがあった。乳白色の薄っぺらで体温のない言葉の羅列に、僕は嫌悪感さえ感じていた。その一方で相対的に「氏ね」「うざい」「消えろ」という暴言が、生きている言葉、リアルな言葉としてその重量を増してゆく。僕は混乱した。道徳的で倫理的なはずの言葉が宙を漂い、唾棄すべき罵りの言葉がリアリティをもつ。一体、どっちがどっちなのだろう。彼女が配信を切る直前に言い残したひと言は、今も鮮明に覚えている。
「擁護してる奴もうざい。それ、本当の言葉じゃないから」
今でも「本当の言葉」とはなにかと考えることがある。どこからどこまで本物の言葉で、どこからどこまでが偽物の言葉なのだろうか、と。いや、そんな風に言葉を「探る」ことにそもそも意味があるのだろうか、と。
彼女がセックスを売り物にする撮影会のモデルをしながら、時折、AVに出演していたことをあとで知った。虚構の世界の住人は、どこかで本当の言葉をさがしていたのかもしれない、とも思う。
そして、あの灰色のウサギは、今も部屋の片隅でじっとうずくまっている気がするのだ。
六角形の棺
7月5日、早朝、バングラデシュでテロの犠牲になった7人と遺族を乗せた政府専用機が、羽田空港に到着した。遠くから望遠レンズで切り取られたその光景は、現実感が希薄で、まるでドラマの再放送を観ているようだ。僕は歯ブラシをくわえたまま、ぼんやりとテレビ画面をながめ、昨夜の深酒を反省していた。
飛行機の貨物室から、白い布に包まれた棺が降ろされる。棺を覆う布が風にはためいた。布が貼りつき木箱の輪郭があらわになる。その瞬間、僕は、はっと息を飲んだ。棺の形が違うのだ。それは見慣れた「直方体」ではなく、「六角形」のそれだった。外国仕様である。まぎれもなく彼らは、遠く異国の地で殺されたのだ。六角形の棺桶は、その事実をなによりも雄弁に物語っていた。これはドラマなどではない。そのリアリティに今さらながら呆然とした。
7人は、バングラデシュのインフラ整備のために汗を流してきた。将来、経済的に自立し、豊かな国になることを夢見て奮闘してきた。7人と残された人々の無念さを思うと、紡ぐべき言葉がみつからない。と、同時に、深い悲しみと憤りにさいなまれているのは、遺族だけではないことを知った。ニュースは、バングラデシュはたいへんな親日国だと報じている。であるなら、バングラデシュの一般市民も悲しみと怒りに打ち震えているに違いない。テロリストは、ふたつの国の人々の心までなぶりものにした。
テロが許されないことは自明である。たとえどんな政治的、思想的、宗教的な主張があろうとも、それを暴力で訴えることは許されない。テロに屈しない。テロを封じ込める。この主張はもっともだと思う。
では、近い将来、私たちはテロを根絶できるのだろうか。
考えれば、考えるほど、それがどれほど困難なことか痛切に思い知らされる。なぜなら、テロリズムには一定の普遍性があるからだ。逆説的に言うと、もしテロに普遍性がなかったとしたら、人類はとうの昔にそれを封じ込めることができたはすだ。ペストや天然痘そうであったように。
有史以来、いや、有史以前から、自分たちの主義や主張を実現させるために、手段を選ばない人々がいた。仮にひとつのテロを封じ込めたとしても、別の場所で別の時間に別の理由で別の人々の手によってテロは「転移」してきた。人類の歴史は、テロの連続であり、テロリズムとの闘いであったとも言い換えられる。
仮に貧困や差別や相互不信が解消されたとして、テロを根絶やしにできただろうか。残念ながら、ひとつのテロを潰せたとしても、またどこかでまたあらたな貧困や差別や相互不信という温床が生まれ、やがてそれがテロリズムの芽をはぐくむ。
テロは、テロリストたちの主義、主張を認めさせる手段であるのと同時に、罪のない人々を殺し傷つけ、私たちを恐怖のどん底に突き落とす。暴力を植え付け、その暴力によって人々を蹂躙し、思考停止に追い込み、最終的に自分たちの意のままに操ろうと企てる。
ならば、もしそうであるなら、私たちは「考えること」を決して放棄してはならない。いくら、どれほど、考えに考え抜いてその結果テロリズムへの有効手段が見つからないとしても、考えることが徒労に終わるとわかっていても、考えることをやめてはならない。ここでは「対策」が問題なのではない、考えるという行為そのものに意味があるのだと思う。
白い布に包まれた六角形の棺を忘れないだろう。そして、その棺を思い出すたびに、どうしたらテロを根絶できるのか考えようと思う。だれに馬鹿にされようが、意味がないと嘲笑されたとしてもかまわない。試合放棄はしない。考えてさえいれば、試合は終わらないのだから。
ぼくは「君が代」が歌えない
「君が代」が好きだ。華やかさや勇壮さに欠けているとしても、荘厳でどこか寂寥感をたたえた旋律は、いかにも日本的で美しいと思う。海外のスタジアムで代表選手が一列に並び「君が代」を歌う。スタンドで揺れる日の丸の小旗。そんな光景は、なんど見ても胸を熱くさせるのに十分だ。
では、僕にとっての「君が代」や日の丸は、日本の象徴なのだろうか。
もう、10年以上前の話になるが、神宮球場でプロ野球の日米対抗を観戦した。試合に先駆けて両国の国歌が流れる。場内アナウンスは「脱帽」と「起立」を促す。僕は席を立たなかった。立つ必要がないと思ったから、そのまま座っていた。突然、後ろから声をかけられた。「おい、そこ、立てよ」
振り返ると短髪で赤ら顔の初老の男が、睨みつけている。ちょっとした口論になった。立つか立たないかは個人の自由だ、というようなことを言い返したと思う。相手は「それでもお前は日本人か!」と罵声を浴びせかけてきた。お互いつかみ掛かるようなことはなかったし、すぐに「君が代」の斉唱が始まったから、言い争いはそこで終わった。直後に僕は反省した。他者を不快にさせるぐらいなら、自分のちっぽけな信条など封印すべきで、大人気なかった、と。それ以来、公の場で「起立」を促されたなら、立つと決めている。
が、僕にとっての日本とは「君が代」でもなければ、日の丸でもない。
今の季節であれば、縁側で食べるスイカ。かたわらには蚊取り線香。遠くから聞こえる花火の音。金魚すくいとベビーカステラと焼きそばの匂い。朝顔に水をやる陽に焼けた少年。プールから見上げる入道雲と子どもたちの歓声。かき氷、甲子園のサイレン、蝉の鳴き声。そのどれもが「僕にとっての」大好きな日本だ。ありふれた日常ではあるけれど、今こうしてあらためて書き起こしてみると、この国に生まれてよかったなとも思う。
100人の人がいたなら、100通りの好きな日本があっていいと思うし、むしろそれが自然なのだと思う。
それをなぜ、「君が代」や日の丸を踏み絵にして、愛国心をたしかめようとするのだろう。なぜ「君が代」や日の丸でなければいけないのだろう。そもそも、愛国心は他者に強要されて抱くものなのだろうか。
先日、森喜朗元総理が、リオオリンピック・パラリンピックの壮行会のスピーチの中で「国歌も歌えないような選手は、日本の代表ではない」と苦言を呈した。もし、本当にそう思っているのなら、派遣選手の選考基準に「君が代を歌えること」を付け加えたらいい。おそらく、世界中の笑いものになると思うけれど。しかし、本当は笑いごとでは済まされない。国家が国民の愛国心を計ること、その裏側には愛国心の強要という目論見があることを忘れてはならない。「君が代」を歌わないことで、愛国的ではないと烙印を押され、やがて切り捨てられてゆく。
ひとりひとりには、ひとりひとりの大好きな日本がある。そして、それは、ひとりひとりの心の中にあるから、ひっそりと目立たないだけなのだ。「君が代」をいくらさがしても、あの夏の日はない。
自由律俳句 #004
自由律俳句は、五七五の音数や季語や切れ字にとらわれることなく、文字通り自由に詠まれた俳句です。代表的な俳人に、種田山頭火、尾崎放哉、住宅(すみたく)顕信らがいます。詳しくはこちらをどうぞ。自由律俳句(ウィキペディア)
Cの物語
大人の話を襖越しに聞くことが好きだった。その話がミステリアスであればあるほど胸を躍らせた。そして、不思議なことに、そのたぐいの話は今でも鮮明に覚えている。
僕は、北海道の室蘭という地方都市で生まれ育った。町の中心部から高台に向かって急勾配の坂をのぼり、墓地を通り抜け、さらに坂道をのぼる。丘の中腹。そこに張り付くようにして実家があった。玄関を出て坂を下ると漁港に出る。走ると2分もかからなかった。
小さな漁港だ。係留している船は、漁が休みの日でも30隻そこそこ。地図を見ると港は、アルファベットの「C」のカタチをしていた。僕らは、Cの中で友だちをつくり、喧嘩をして、初恋をして、少しずつ大人になっていった。
Cの口が開いている部分は岩だ。その岩を潮流が長い時間をかけて削り、洞窟を穿った。洞窟に立ち入ることは、固く禁じられていた。その理由は、潮の流れが速く、子どもが落ちるとまず助からないから。もうひとつの理由は水死体が漂着するから、である。
ここから先が「大人たちの話」だ。
漂着した水死体は、警察署に運ばれ検視が行われる。その後、行方不明者のいる家族が警察に呼ばれ一組ずつ遺体と対面する。遺体の多くは衣服を剥ぎ取られ損傷が激しい。家族であっても、ひと目でそれが身内だとわかることはまれだ。では、なぜ、わざわざ家族と会わせるのか。鼻血である。遺体は、家族に会うと鼻血を流す。警察は、その鼻血を根拠に本人を特定し、事件性がなければそのまま家族に引き渡す。
子ども心にも「嘘だろ」と思った。
先日、なにかの拍子にこの話を思い出した。まさか、と思い検索する。するとこの手の話は、自分が生まれ育った町のみの伝承ではなく、全国各地に似たような言い伝えのあることを知った。
ここで話の真偽を確かめるつもりはない。僕は、法医学の専門知識があるわけでもないし、民俗学の専門家でもない。さらに付け加えるなら、仮に事実を知ったところで、そこに特別な意味があるとは思えないのだ。
世界は明るくなった。
明るくなったとは、物理的に、照明設備によって、という意味だけではない。暗闇の中で息を潜め蠢くもの、「魔」としか呼びようのないもの、人間が立ち入ってはいけない「穢れ」「神聖さ」「結界」、そしてそれらの持つ神秘的な力をも含めて、光はすべてをあらわにしようとする。やがて彼らは居場所を失い、徐々に追い詰められてゆくだろう。
僕は、それを文明の勝利だとは思わない。上手く説明できなくてもどかしいのだが、世界には、守るべき「物語」があるような気がしてならないのだ。もし、すべての物語を失った世界は、薄っぺらで単調で退屈ななものになってしまう。ここに小さな物語を記した。私たちが、森や海を守るように、この物語も暗闇に返そうと思う。もといた場所へ。
螺旋階段の上と下で
「その犬と豚のどこがどう違うんだ?」
高校1年の秋だったと思う。その日は、朝から冷たい雨が降っていた。シャッターの降りた八百屋の軒下。ダンボールの中で子犬が震えていた。箱にはタオルが敷き詰められていたが、糞尿のせいですっかり汚れていた。子犬は鳴き声を上げることもなく、壊れたモーターのように小刻みに震えている。底が抜けないよう慎重にダンボールを拾い上げ、そのままアパートに連れて帰った。湿ったダンボールは「腰」がなく、思った以上にずしりと重かった。出来の悪い青春ドラマのワンシーンのようだが、すべて実話である。
僕は、家の事情で高校に入るとすぐに六畳一間のアパートを借り、一人暮らしをはじめた。生活費は、半分を親に出してもらい、残りの半分はアルバイトでしのいだ。ご多分にもれず、アパートはすぐに不良のたまり場になったが、それはそれで楽しかった。
電気ストーブのスイッチを入れ、乾いたタオルで体を拭く。しばらくすると震えは収まったが、怯えているのか弱っているのか、子犬は鳴き声ひとつ上げない。温めた牛乳を近づけると、少し飲んだ。ミルクを舐める音と雨音が溶けあう。暗く湿った殺風景なアパートに子犬と16歳。世界には、ふたつの生き物だけしかいなかいような気がした。と、同時に、子犬はまるで自分の分身のようでもあった。
アパート1階のピンク電話から、先輩Tに電話をした。バイト先のマクドナルドで知り合った早大の三年生だ。僕は彼を兄のように慕っていた。Tが相手をしてくれると、自分がいっぱしの大人になったような気がして、嬉しかった。
「いるから来いよ」
受話器を置くと部屋に戻り、子犬の様子を確認するとTの住むマンションに向かった。犬は腹がふくれたせいか、乾いたタオルに包まってかすかに寝息を立てていた。マンションまでは歩いて3分とかからない。雨はすでにやんでいたが、空は鉛色のままだった。
「で、その犬、どうするんだ?」
「わかんない。震えていたし、雨が降っていたし・・・」
「お前のとこじゃ飼えないよな。ここでも無理だ」
「でも、かわいそうじゃん」
Tは、乱暴にタバコをもみ消すと、湯を沸かしにキッチンに立った。湿った空気が薄く開けたサッシから流れ込み、鉛色の沈黙が部屋を満たしてゆく。
「おまえさあ・・・。トンカツ好きだよな? その犬とトンカツはどう違うんだ? もともと同じ生き物じゃん。殺されて食われる豚はどうでもよくて、その犬だけ特別なのか? 飼えもしないくせに拾ってきて、かわいそうはないだろ? いいこと教えてやるよ。お前のそういうとこ、世間じゃ偽善って言うんだ」
反論できなかった。そのままアパートに帰り、子犬をもといた八百屋の軒下に戻す。道すがら子犬は見ないようにした。両腕に伝わるダンボールの重いような軽いような奇妙な感覚は、今でもはっきりと覚えている。
この話には、なにもない。
示唆的なものも教訓もなにもない。食物連鎖によって、種をながらえることは自然の理(ことわり)で、それを議論したところでなにも生まれない。生きているものを殺し食わなければ、自分が死ぬだけだ。簡単な話である。
けれども、僕は、これをきっかけに変わった。わかりきっていること、考えたところで埒のあかないこと、意味があるとは思えないことを、思い考える。気がつくとそれが癖のように染みついていた。
私とはなんであるのか。なぜ、死ななければならないのか。生きることに意味はあるのか。なぜ、なにかが「ある」のか。なぜ「ない」ではないのか・・・。
終わりのない螺旋階段を、昇ったり降りたりしているようなものだ。眺める景色が多少変わったとしても、自分はそこから一歩も動いていない。そんなことを考える暇があるのなら、ほったらかしにしている企画書を一行でも埋めるべきだと思う。
人生の「密度」とはなんだろう?
幸せな家庭を築くこと。子どもの成長を見守ること。富と権力を手に入れること。芸術にのめり込むこと。ここにも正解はない。そのどれもが、「その人にとっての密度」なのだと思う。それが、たまたま僕の場合は、終わりのない螺旋階段を昇り降りすることなのだ。堂々巡りで、自分を前に進めることができなかったとしても、そこから見える景色を、僕は気に入っているのだと思う。