コンポジション

地味なブログです。お役立ち情報は皆無です。感じたこと、思ったこと、考えたことを、ぽつりぽつりと書いています。受け売りではなく、自分で考えたことを書くようにしています。嘘や誇張もできるだけないように、と思いながら書いています。写真も公開する予定です。

六角形の棺

7月5日、早朝、バングラデシュでテロの犠牲になった7人と遺族を乗せた政府専用機が、羽田空港に到着した。遠くから望遠レンズで切り取られたその光景は、現実感が希薄で、まるでドラマの再放送を観ているようだ。僕は歯ブラシをくわえたまま、ぼんやりとテレビ画面をながめ、昨夜の深酒を反省していた。

飛行機の貨物室から、白い布に包まれた棺が降ろされる。棺を覆う布が風にはためいた。布が貼りつき木箱の輪郭があらわになる。その瞬間、僕は、はっと息を飲んだ。棺の形が違うのだ。それは見慣れた「直方体」ではなく、「六角形」のそれだった。外国仕様である。まぎれもなく彼らは、遠く異国の地で殺されたのだ。六角形の棺桶は、その事実をなによりも雄弁に物語っていた。これはドラマなどではない。そのリアリティに今さらながら呆然とした。

7人は、バングラデシュのインフラ整備のために汗を流してきた。将来、経済的に自立し、豊かな国になることを夢見て奮闘してきた。7人と残された人々の無念さを思うと、紡ぐべき言葉がみつからない。と、同時に、深い悲しみと憤りにさいなまれているのは、遺族だけではないことを知った。ニュースは、バングラデシュはたいへんな親日国だと報じている。であるなら、バングラデシュの一般市民も悲しみと怒りに打ち震えているに違いない。テロリストは、ふたつの国の人々の心までなぶりものにした。

テロが許されないことは自明である。たとえどんな政治的、思想的、宗教的な主張があろうとも、それを暴力で訴えることは許されない。テロに屈しない。テロを封じ込める。この主張はもっともだと思う。

では、近い将来、私たちはテロを根絶できるのだろうか。

考えれば、考えるほど、それがどれほど困難なことか痛切に思い知らされる。なぜなら、テロリズムには一定の普遍性があるからだ。逆説的に言うと、もしテロに普遍性がなかったとしたら、人類はとうの昔にそれを封じ込めることができたはすだ。ペストや天然痘そうであったように。

有史以来、いや、有史以前から、自分たちの主義や主張を実現させるために、手段を選ばない人々がいた。仮にひとつのテロを封じ込めたとしても、別の場所で別の時間に別の理由で別の人々の手によってテロは「転移」してきた。人類の歴史は、テロの連続であり、テロリズムとの闘いであったとも言い換えられる。

仮に貧困や差別や相互不信が解消されたとして、テロを根絶やしにできただろうか。残念ながら、ひとつのテロを潰せたとしても、またどこかでまたあらたな貧困や差別や相互不信という温床が生まれ、やがてそれがテロリズムの芽をはぐくむ。

テロは、テロリストたちの主義、主張を認めさせる手段であるのと同時に、罪のない人々を殺し傷つけ、私たちを恐怖のどん底に突き落とす。暴力を植え付け、その暴力によって人々を蹂躙し、思考停止に追い込み、最終的に自分たちの意のままに操ろうと企てる。

ならば、もしそうであるなら、私たちは「考えること」を決して放棄してはならない。いくら、どれほど、考えに考え抜いてその結果テロリズムへの有効手段が見つからないとしても、考えることが徒労に終わるとわかっていても、考えることをやめてはならない。ここでは「対策」が問題なのではない、考えるという行為そのものに意味があるのだと思う。

白い布に包まれた六角形の棺を忘れないだろう。そして、その棺を思い出すたびに、どうしたらテロを根絶できるのか考えようと思う。だれに馬鹿にされようが、意味がないと嘲笑されたとしてもかまわない。試合放棄はしない。考えてさえいれば、試合は終わらないのだから。