コンポジション

地味なブログです。お役立ち情報は皆無です。感じたこと、思ったこと、考えたことを、ぽつりぽつりと書いています。受け売りではなく、自分で考えたことを書くようにしています。嘘や誇張もできるだけないように、と思いながら書いています。写真も公開する予定です。

地球儀の 3.11

仕事部屋に、古い地球儀があります。直径は約35センチ。ずいぶん前に、古道具屋で購入したものです。朝鮮半島に国境線が引かれていないので、1950年前後に作られたものだと思います。

3.11以来、なにかの拍子にこの地球儀の、三陸の、リアス式海岸を指でなぞることがあります。

あの日、東北を襲った津波の最大波高は、20メートルとも30メートルともいわれています。けれども、いくら息を殺して地球儀をなぞってみたところで、波の高さを指先で感じることはできない。マグニチュード 9.0によって揺さぶられた大地のうねりも、指先に伝わることはない。しんと静まり返った部屋に、くすんだ青い地球儀がぽつんとあるだけだ。つまり、地球儀上では、なにも起きてはいなかった。

僕は、ここで、あの地震など取るに足りない、気にかけるほどのものではない、などと言いたいのではありません。その逆、むしろ、伝えたいのはその真逆です。

人々が何十年、何百年という時間を費やし、知恵を絞り、汗を流し、これが正しいと信じ、築き上げてきたものを(それはつまり文明なのですが)、津波はいとも簡単に押し流してしまった。そして、あの震災から5年たった今でも、家を失い、職を失い、家族が離散し、影のように生きざるを得ない人々がいる。

地球儀がぴくりとも動かなかったことは、太陽系から見るとさらになにも起きていないことを意味します。銀河系から見るとさらに。そして宇宙全体から見るとさらにさらに・・・。

自然がどれほど恐ろしいか。その前で人間はどれほど無力でちっぽけで、か弱い存在なのかということを、くすんだ青い地球儀は語りかけている。人間よ、おごってはいけない、と。そんな気がしてならないのです。

バスも飛行機も三輪車も

 バンドの「スーパーカー」が好きで、作家の中上健次が好き。

両者をご存知の方なら、おわかりになると思うのですが、この二組を乗り物にたとえるなら、飛行機と路線バスのような関係で、一見するとどこにも共通点が見当たらない。僕の場合、一事が万事この調子で、ひょっとしたらみなさんもそうなのかな、と思っています。

つまり、ひとは、バスも飛行機も大好きで、そこに三輪車やら寝台列車が割り込むことも十分に起こりうる。

人生の目的は、などと大げさなことを言うつもりはないのですが、そこになにか「意味のようなもの」があるとしたなら、バラバラな好きな乗り物たちの「目的地」、それも「共通の」目的地をさがすことなのかな、と思えてくるのです。

陸だったり、空だったり、海だったり、場合によっては地中だったりする、ばらばらな好きな乗り物たちの、ぱらぱらな行程も、実はその目的地は同じなのだ、と考えたら「好きの理由」も合点がいくのです。

そろそろバスががやってきます。乗り遅れませんように。

※以前、ツイッターに投稿したものに加筆・修正しました。

15歳の君へ

 

15歳の自分。あの時にタイムリープして、自分が自分に会いにいく。

ドアを薄く開け、僕は中を覗き込んだ。「彼」は自室で、ストーンズを聴きながら、サッカーのスパイクを磨いている。新聞紙の上には、右のスパイクと二足分のシューレース。小刻みに肩を揺らしながら、シューズについた泥をブラシで落としている。夏だ。もうすぐ、新人戦が始まるのだろう。

防災無線から「夕焼け小焼け」が流れてきた。「僕」は、うっすらとオレンジ色に染まった部屋のドアをそっと閉める。彼の、真っ直ぐで、希望だけが支配をしている瞳を見ることに、これ以上は耐えられなくなったから。

もし、生まれ変わることができたとしても、僕はおそらく同じような人生を歩むことになるだろう。その意味で、この半生に後悔はしていない。けれども、15歳の君には、あやまりたい。それなりにがんばったつもりだけれど、こんな風にしかなれなかったよ。ごめんな、と。

ブランコをこぐ少女

かれこれ15年以上前の話です。雑誌『WIRD 日本語版』にこんなインタビュー記事が掲載されていました。取材に答えていたのは、孫正義氏です。

記者の「なぜあなたは、それほどまでに夢中で仕事をしているのか」という問いかけに、彼はこんな風に答えていました。

「この地球のどこか遠くの国で、見知らぬ女の子が、風に吹かれながらブランコを漕いでいる姿を想像してみてください。僕は、その子のために仕事をしているのです」

古い話の上、雑誌は手元にないので、記憶をたよりに書き起こしました。細かな部分は、違っていると思います。けれども、そのときに感じた「えっ!?」という狐につままれたような感覚は、いまでも、鮮明におぼえています。ビジネス記事にもかかわらず、なぜこの人は、メルヘンを語っているのか、と。

仕事の本質とはなにか、ときかれても「はい、これがそうです」とは、明確には答えられない。同時に仕事とは、基本的につらく、お金のためになにかを犠牲にしている感覚がつきまとう。

けれども「見知らぬだれかのため、まだ見ぬだれかのために、自分は汗をながしているのだ」と考えることができたなら、あら探ししか能のない上司や、人をストレスのはけ口としか思っていない得意先や、飲み会の時だけ元気な同僚(そういう人も必要なんですけどね)、そういった「もういい加減にしてほしい」というわずらわしさから解放されて、芝生の上で風が吹かれているような気分になりませんか。

きれいごと、と言ってしまえば、たしかにそれまでなのですが、知らない人のために、会うかどうかもわからない人のために、なにかを考える。歩く。走る。かがむ。汗をながす。ひとり残ったオフィスで、もくもくとコピーをとって、ホチキスで資料をまとめていく作業も、なんだか「いとおしいもの」「特別なもの」に思えてくる。

半分は、自分に向けてこのエントリーを書きました。今も、きっとどこかでブランコを漕いでいる女の子へ。おやすみなさい。