ワタシはアナタで、アナタはワタシ
ツイッターのタイムラインをぼんやりながめる。
すき。きらい。本当にその通り。だいたい賛成だけど、そこは違うと思う。不快。もっと知りたい。わかった。わからない。不安になる。怖い。かわいい。本当かな。嘘かも。楽しそう。おいしそう。きれい。なつかしい・・・。
目まぐるしく流れる情報は、まるでジェットコースターからながめる景色のようだ。感情がころころと転がってゆく。そうこうしているうちに、奇妙な感覚にとらわれることがある。
「私とは、いったい、何者なのか」
自分自身を「塑像」にたとえてみる。感情の揺れは、塑像に粘土を塗り重ねること、肉付けすること、削ること、なめらかにすることに、どこか似ている。そして「私」が一瞬出来上がっては、すぐに、再び別の手が加えられてゆく。
ここで、私は、私という塑像に手を触れていない。私は、私を放棄している。そして、私とはいったい全体、何者なのかといぶかしく思う。いや、その前に、私は本当に「いる」のだろうか、とさえ思う。
妄想をもうすこし膨らませます。
次から次へと手を加えられる私という塑像。ここでの私は、意思をもたない粘土のカタマリにすぎず、他者の介入によってのみ、その「姿かたち」を保っている。言い換えるなら「私は、あなた」なのだ。もちろん、この関係は一方通行ではない。「あなた」も、複数のだれかによって「姿かたち」を保持している。これを僕単独の目線で表現するなら「あなたは、私」である。
妄想と断ったのには、理由がある。この場合、塑像である私をアトリエの隅から観察している「もうひとりの私」が、いなければならない。さらに、その観察者を観察している「さらなる私」も必要だ。さらに、さらに・・・。そうしてこの命題は、トートロージーに陥る。つまり、答えがでない。
カントをもちだすべくもなく「私とは、いったい、何者なのか」という命題は、考えることそれ自体、きっと無駄なのだろう。また、私たちの使っている言語そのものが、この手の命題を推論するには、不向きなのかもしれない。
けれども、僕は、「私はあなたで、あなたは私」と思うとき、それはなぜか不快な感じではなく、むしろ、ある種の心地よさ、暖かさ、さえ感じるのだ。答えにたどり着けないことは、わかってはいるけれど、もう少し、考えてみようと思う。ここには、なにか重要なことが、隠されているような気がするから。
おっと、気がつくともう朝です! あなたの私は、三時間ほど仮眠をとります。おやすみなさい。